今尚NWAを追う(3) – 地域制崩壊

NWA (ナショナル・レスリング・アライアンス)の歴史は大きく分けると、4時代ある。

  1. 1948年7月~1993年9月: 発足~WCW脱退
  2. 1993年9月~2012年8月: WCW脱退、Pro Wrestling Organization, LLC設立~加盟団体保険制度に関する裁判に敗訴
  3. 2012年8月~2017年9月: International Wrestling Corp, LLC設立~Lightning One, Inc.(ビリー・コーガン)への売却
  4. 2017年9月~現在

NWAが各地に加盟団体を持つプロレス界の国際的主要組織だったのは、事実上1950年代前半から1980年代中期までの間。その頃になると、ビンス・マクマホン・ジュニア率いるWWF(現WWE)の全米侵攻により、アメリカとカナダのプロレス界の中核となっていた地域制度はほぼ崩壊していた。

…というのが、定説だが、実際そうなのだろうか。

自分は必ずしもそれだけが原因だとは思わない。それどころか、いずれにせよ起こりうることで、マクマホンでなければ、他の誰かがその状況をうまく利用していたはず。

ここで、1970年代後半からの流れを追ってみる。

1977年: テネシーとアラバマ北部およびケンタッキーやアーカンソーの一部という広域な地区を牛耳っていたNWA理事ニック・グラスの傘下としてメンフィス地区のプロモーターだったジェリー・ジャレットがグラスに興行戦争を仕掛け圧勝。ナッシュビルやチャタヌーガで引き続きプロモートしていたグラスも1981年に引退、ノックスビル以外のテネシー全域とケンタッキー州ルイビル、インディアナ州エバンスビルなどがジャレットの傘下になる。ジャレットは引き続き80年代中頃までNWA会員として籍を残すが、どちらかというと提携したAWAとの関係を重視していた。

1978年: ディック・マードックとボブ・ウィンダム(ブラックジャック・マリガン)がファンク兄弟からアマリロ地区の興行権を買収。不調だったサンフランシスコ地区へも進出を試みるが失敗、80年にリッキー・ロメロに売却、翌年地区閉鎖。

1979年: ビル・ワットがNWA世界ジュニア・ヘビー級王座管理者であるレロイ・マクガークから、中南部地区(ルイジアナ、オクラホマ、アーカンソー、ミシシッピ)のうち、ルイジアナとミシシッピを買収。マクガークはオクラホマで興行を続けるが、1982年に同地区は閉鎖、ワットのMSWAが進出。MSWAは決してNWAとは敵対関係ではなく、世界王者のリック・フレアーを出場させたこともあったが、最後までNWAには加盟せず。

1980年: ザ・シークのデトロイト地区が閉鎖。

1981年: サンフランシスコ地区閉鎖、翌年AWAが進出。カルガリー地区のスチュ・ハートが、NWA世界ヘビー級王者の招聘を止め、AWA王座を同地区の世界王座として認定する。以後、WWFへ同地区を売却するまでNWA王者を出場させることはなかった。ダスティ・ローデスがNWA王者になったことに反対したという説がある。

1982年: 通算22年NWA会長を務めたセントルイスのサム・マソニックが引退。6月にはビンス・マクマホン・ジュニアのタイタン・スポーツが、マクマホン・シニアからWWFを買収 (翌年第一回IWGPが開催された際には既にシニアの実権はなかった)。同年末、マイク・ラベールのロサンゼルス地区が閉鎖し、翌年から友好関係にあったWWFが当面はラベールを表面上のプロモーターとして同地区進出。

1983年: トロント地区のフランク・タニーが他界、甥のジャック・タニーが引き継ぐ。WWFがNWAを脱退。

1984年: ブリスコ兄弟がオレイ・アンダーソン率いるジョージア・チャンピオンシップ・レスリングの株の持ち分をWWFに売り渡し、TBSでの放送がWWFに乗っ取られるが、視聴者の抗議の電話が殺到。アンダーソンはチャンピオンシップ・レスリング・フロム・ジョージアを立上げ、別の時間枠でTBSでの放送を開始。同年WWFはトロント地区も買収。

1985年: ジム・クロケット・ジュニアがチャンピオンシップ・レスリング・フロム・ジョージアを買収、WWFからTBSでの放送権も買い戻し『NWA』の名で全米進出を開始。同年フロリダ地区のエディ・グラハム元NWA会長が自殺。この頃からクロケットの世界王者リック・フレアー独占が始まり、NWA内部でもクロケットに対する反感が高まる。

1986年: フリッツ・フォン・エリックのテキサス地区がNWAを脱退。この時点でNWAの地域制は大幅に崩壊したと言われる。

1987年: クロケットがフロリダ地区とUWF(旧MSWA)を買収。UWFの買収により、大きな損害があったと言われる。ボブ・ガイゲル元NWA会長のセントラル・ステーツ地区がNWAを脱退し、WWAを旗揚げするが、翌年閉鎖。CCW (アラバマ、テネシー東部)がNWAを脱退。

1988年: UWF買収で損害を受けたクロケットがテッド・ターナーに身売り、WCW発足。だが、WCWは正式にNWAに加盟していなかったにも拘わらずNWAの権利も買収したと理解していたため、後に問題となる。

1990年: 法律上存在し続ける『NWA理事会』がWCWによる『NWA』の名称の使用にクレームをつけたため、WCWは即NWAに加盟。だが、翌年からWCWは全ての王座においてWCWの名称を使用、当時のNWA世界ヘビー級王者フレアーが初代WCW王者に認定される。NWAも引き続きフレアーを王者に認定。

1991年: リック・フレアーは引き続きNWAとWCWの両方から世界王者に認定されるが、東京ドームでの対藤波辰爾戦における不明慮な裁定により、(公式的には)NWA王座WCW王座が別扱いとなる。だが同年フレアーのWWF移籍により、1948年の結成以来初めてNWA世界ヘビー級王座が空位となる。前年にはNWA会員として名を連ねていたオレゴン地区PNWのドン・オーウェンが、この年のNWA総会には不参加だったことから、この頃脱退したと思われる。これにより、米国およびカナダでのNWA加盟団体はWCWのみとなる。同年AWAも事実上閉鎖。

要するに、マクマホン・ジュニア率いるWWFが今や世界一のプロレス企業という揺るがない地位を築き上げたのは確かだが、プロレス界の地域制が崩れゆくのを他のプロモーター達より先に察知し、地域限定でなく全米に対して情報発信が可能なケーブルテレビの普及の中、うまくその時代の流れを読んだ経営判断ができたということではないかと思う。

だが、NWA内部においては、クロケットの行動が『自滅』につながったような気がしないでもない。

ニューヨーク

英語による日本のプロレスの情報を提供する(おそらく)初のウェブサイトとして、昔はそこそこ有名だったpuroresu.comと、今でも研究家の間では結構人気のあるWrestling-Titles.comとは別に、実はもう一つプロレスサイトを運営している。

NYProWrestling.comといって、英語のみのサイトなので日本のファンの間では殆ど知られてないと思う。ニューヨーク周辺の試合結果をとにかく見つかるだけ載せ、興行日程も載せた、地域限定型サイトだ。

こんなサイトを始めようと思った理由は幾つかあるが、今やニューヨーク郊外に住んでいる年数が、生まれ育った日本での日々より長くなってしまい、この土地に落ち着いてしまったというのも当然ある。

今のWWEのトップの選手達の多くは、かつて、ニューヨークやニュージャージーで定期的に興行していたROHの出身者だ。当時のROHは、今の様な全米規模の団体ではなく、フィラデルフィアを中心とし、北東部で活動していた団体で、当然選手との専属契約もなかった。つまり、世界最大のプロレス団体WWEで現在活躍している選手の多くは、かつてニューヨーク周辺のインディ団体で人気のあった面子だ。

地元のインディプロレスの情報を載せるサイトを作って、少しだけでも、間接的でもいいから応援したいという気が起こされた。

それとは別に、1970年代のIWAから遡り、1960年代前半にもWWWFへの対抗勢力が存在していたことを知ったというのも大きな理由の一つ。

1980年代以前のニューヨークのプロレスは、WWWFがほぼ独占していたといっても過言ではないが、ビンス・マクマホン・シニアとトゥーツ・モント率いるキャピタル・レスリングが、NWAを脱退し、WWWFの名称で独自の世界ヘビー級王座を認定したのが1963年。それと同時に、南東部のNWAの重鎮、ジム・クロケット・シニアが、キャピタルを干されて間もないアントニーノ・ロッカと組んで、結果的に失敗だったが、WWWFに対抗していたのだ。

マクマホンだけがニューヨークのプロレスじゃないということに気付いた時、せめて試合結果だけでもいいから、この地域のプロレスの歴史をできるだけ集めてまとめてみたいと思った。もうちょっと英語が上手だったら、色んな文章も書いていきたいところだったが、その点においては正直言って自信も気力もない。

2008年1月にサイトを設置し、なんだかんだで10年もやってるんで、徐々に人気が出てきているみたいだし、微力ではあるが、今後も自分の『第二の故郷』のプロレスに、少しでも貢献できればと思う。

今尚NWAを追う(2) – 『NWA認定』

NWA (ナショナル・レスリング・アライアンス)の歴史は大きく分けると、4時代ある。

  1. 1948年7月~1993年9月: 発足~WCW脱退
  2. 1993年9月~2012年8月: WCW脱退、Pro Wrestling Organization, LLC設立~加盟団体保険制度に関する裁判に敗訴
  3. 2012年8月~2017年9月: International Wrestling Corp, LLC設立~Lightning One, Inc.(ビリー・コーガン)への売却
  4. 2017年9月~現在

NWAが各地に加盟団体を持つプロレス界の国際的主要組織だったのは、事実上1950年代前半から1980年代中期までの間。今回の話題はその時代が中心だが、それより後の時代については、また別の機会に書こうと思う。

当時のNWA本部が実際に認定し管理していたのは世界ヘビー級ジュニアヘビー級ライトヘビー級の3王座のみ。このうち、ジュニアヘビー級はオクラホマ地区のレロイ・マクガーク、ライトヘビー級はメキシコのEMLL(現CMLL)に管理が任されていた。1950年代初期に、短期間ながらミルドレッド・バークの保持する世界女子選手権を正式に認定していたこともあったようだが、その他の選手権については、加盟団体が適当に『NWA』を付けたり付けなかったりといった具合だった。要するに、それら以外で『NWA認定』とさられていたのは、全てその地区のローカル王座だった。特に世界タッグ選手権USヘビー級選手権は、ミッドアトランティックサンフランシスコデトロイトなど、多くの加盟地区がそれぞれ認定していた。アメリカのプロレスが全国中継されておらず、殆どがローカル番組だったからこういうことが可能だった。プロレス専門雑誌なんかは苦労しただろうが…。

中にはWWWFやプエルトリコのWWCのように、NWAに加盟していながらも、独自の『選手権管理団体』の名称を使っていたものもあるが、それらと区別するという意味も含めて、自分が運営するWrestling-Titles.comでは、NWA加盟団体の認定する多くの選手権の名称に『NWA』と付けている。実際にはNWAと付いてなかったものもあるだろうだが、通常、試合前にリングアナウンサーが「この選手権試合は、NWAの許可のもとで行われます。」というようなことを言ったり、王座決定戦に当時のNWA会長が立会人として招かれたり、王座返上や剥奪などの際も、送られてきたビデオでNWA会長がテレビを通して発表したり、様々な方法で王座に権威付けがされていた。加盟地区の中には、NWA本部が存在さえも知らない選手権があったかもしれないが、少なくとも表面上では『NWA認定』だった。

当然、日本にあった選手権も同様だ。

新日本プロレスNWA北米タッグ選手権を使い始めた時点では、まだNWAには加盟していなかったが、それは新日に外国人選手を派遣していたロサンゼルス地区のマイク・ラベールがNWAの会員だったから可能だった。同地区のテレビ中継では、スタジオの壁にNWAの大きなロゴが飾られていたし、後にラベールは第一副会長も務めたほどだった。

全日本プロレスの選手権については、あれだけ選手権試合宣言で「NWAが認定し、PWFが認可する」(反対だっけか?)を連発し、時として立会人に当時のNWA会長を招いたりしたので、明確だろう。NWA傘下とはいえ独自の『選手権管理組織』であるPWFの名がついたもの以外は、少なくとも表面上は『NWAの選手権』ということになる。

日本プロレスについては多少複雑で、正式にNWAに加盟したのが実は1969年 (67か68年から準会員で、遠藤幸吉が67年の年次総会に出席したという説もある)。では、それまでどうだったのかというと、NWA内での位置づけは、日プロ設立以前から日本はハワイ地区の傘下という扱いで、日本に対して選手を派遣する際には、当時の同地区のプロモーターであるアル・カラシック経由でないといけなかったらしい。力道山がデビューしたトリイ・オアシス・シュライナーズ・クラブの興行もこれに当てはまる。これらのことは、1950年代のカラシックと当時のNWA会長サム・マソニック (英語ではマチニックと読まれることの方が多い)との手紙のやり取りで確認できる。1957年にルー・テーズが世界王者として来日し力道山と対戦した際も、立会人はカラシックだった。翌58年、日プロとつながりのあったロサンゼルス地区がNWAを脱退し、NAWA(後にWWA)を名乗ってからも、来日する多くの外国人選手はNWA系だったので、NWAとのパイプが途切れたわけではなかった。

ちなみに、最初ルー・テーズが保持していたインターナショナル・ヘビー級選手権に関しては、一部の情報のように、元々テーズがアントニーノ・ロッカから奪取したわけではない。1990年代初期、テーズ本人がレスリング・オブザーバー・ニュースレターに投稿した手紙によると、テーズがディック・ハットンに世界王座を奪われた後、ヨーロッパ遠征の際、何等かの肩書が必要なので、テーズ自らNWAにインター王者を名乗らせてもらうよう、許可を得たということらしい(イギリスの一部では引き続き世界王者として宣伝されてたが…)。その後のインター王座については4年前にも書いたので、そちらをご覧いただきたい。いずれにせよ、インター王座の由来に少なからずともNWAが関わっていたようだ。日本にあったインター王座を、Wrestling-Titles.comで『NWAインターナショナル・ヘビー級』としているのも、上述の様々な理由による。

約20年前、puroresu.com内に選手権変遷史を載せ始めた頃は、極力『裏事情』について触れずに、スポーツ的な観点で情報提供をしたいという気持ちがあった。そういう面もあって、各選手権に、『ローカルのプロモーターが適当に作ったタイトル』というより、NWAとかAWAとか、認定団体を表面上でもいいから明確にしたかったというのもある。当然のことながら、(特にアメリカの)プロレス史を調べれば調べるほど、それはほぼ不可能ということに気付き始めるわけだが、長年のファンとしては、何等かの権威付けはしたいものだ。

Wrestle Kingdom 12

毎年1月4日には新日本プロレスが東京ドームで、同団体としては年間最大の大会『Wrestle Kingdom』を開催するわけだが、新日本プロレスワールドというストリーミングサービスで生放送が観れるとはいえ、米国東海岸では大体開始が午前2時とか3時、終わるのが7時や8時過ぎるという、まともに観てたら寝れもしないし、仕事に行く準備もできない時間帯。

ありがたいことに、今日は大雪のため、せがれの学校も休みで、自分のお客さんも閉めるってのを夕べから知ってたんで、観る機会はあった。

とはいえ、2時頃始まるのをずっと観続ける気はなかったんで、早めに起きたら最後の2、3試合くらい観れるだろうと思い、とりあえず最初のバトルロイヤルだけ観た。癌と闘病中の垣原賢人が優勝し、試合後、頸椎完全損傷で療養中の高山善廣にエールを送った時は、さすがに感動した。あとは、どうせ、生で観たかったのは最後の2試合だけで、他の試合はネットで結果が判る前に観れればいいと思ってたんで、さっさと寝た。

そんな時に限って、いつも真夜中に目が覚める自分が、朝までずっと寝てしまう。「ありゃ、結構逃したかな」とか思って7時頃だったか、スマホにイヤホン付けてベッドの上に持って来て新日ワールドにログインしたら、丁度最後から2試合目の煽りビデオが始まるとこだった。

ふと横を見ると、いつの間にか自分と嫁さんの間に(いつものごとく)せがれが寝てやがる。普段は、狭くて自分が寝れなくなるんで、なるべく追い返すが、自分のデスクトップパソコンはせがれが寝る部屋に置いてあるもんで、今回はせがれをそのままにしといて、今度はパソコンでログイン。結果、大き目の画面でゆっくり観れた。他の試合は、後で英語の実況で観た。

プロレス的には古臭い考え方を持ってるかもしんない自分としては、3ウェイや4ウェイってあまり好きじゃなく、特に新日での選手権試合でそういう試合形式だと、未だにしっくりこない。当然ガントレット戦も。まぁ、選手数が多いし、海外にもウケることをする必要もあるだろうから、しょうがないのかもしらんが…。

鈴木みのるは、敗者髪切り戦で負けた後もかっこいいと思った。相手の選手が用意した椅子じゃなく、自分が持って来た椅子に座り、相手からバリカンを取り上げ自分で髪を切ったその行為を、日本語の実況では、『切腹』と例えてたが、英語の実況では、「(髪切りは)そういう約束だったんでしょうがない」で済ませてた。英語でプロレスの実況ができて、そのうえ日本の文化も多少理解してる人って、なかなかいないんだろうけど、でもやっぱ、そういうとここそ上手く解説できる人がいたらいいな…とも思った。

最後から2試合目は、新日外国人レスラーのトップ、ケニー・オメガと、ついこないだまでWWEのメインイベンターの一人だったクリス・ジェリコのノーDQ(反則負けなし)ルールのIWGPユナイテッド・ステーツ・ヘビー級選手権試合。今の新日、自分には存在意義が理解できないタイトルが幾つかあって、これもその一つなんだが、試合自体は結構面白かった。でも反則なしってことは、テーブルや椅子を使い放題ってことで、それで盛り上がったというのが大きかったんで、次回は普通のルールで、両名人がどこまで面白い試合をしてくれるのか興味ある。でも、ジェリコって今後も参戦するんだろうか…? 最近ほとんど裏事情のニュースサイトとか読むことないんで(元々あまり興味ないし)、よう判らん。

最後の試合は、オカダ・カズチカに内藤哲也が挑戦するIWGPヘビー級選手権試合。これまで何度も書いてるが、どうも自分はオカダが好きになれない。凄くうまいのは判るんだけど、雰囲気なのか表情なのか、はっきり表現できないが、とにかく好きになれない。

一方、内藤はというと、今の新日では最も好きな選手。比べたら変かも知らんが、少なくとも自分にとっては、かつての長州力を思い出させる。「この選手、嫌いってわけじゃないけど、一体何がやりたいんだろ…」とか思ってたら、メキシコから帰国後、雰囲気が全く変わってて、『反体制』っぽいキャラになり、突如人気が出た。

正直、オメガとジェリコの試合のインパクトが結構強かったんで、オカダと内藤の試合はどうなるんだろうかと、不安と期待が入り混じったまま観続けたような気がする。でも、やっぱよかった。

当然、内藤のファンなんで勝ってほしかったが、終わってみたら、オカダ防衛で良かったと思う。

というのは、今回は、ESPNやスポーツ・イラストレイテッド、ローリング・ストーンといったアメリカのメディアのウェブサイトが新日に関する記事を何度も載せ、更にジェリコ参戦で、本当の意味で世界から注目され始めて初のドーム大会だったわけで、人気絶頂の選手が王座奪取というより、今のチャンピオンを世界に披露するということでよかったんじゃないかなと、そう思った。

負けた内藤の試合後のインタビューも、十分説得力あったし、これからも楽しみ。

新日には、「WWEだけがプロレスじゃない」というのを、今後も世界に見せつけてほしいと思う。

今尚NWAを追う(1) – その理由

ここでいうNWAとは、もちろん1948年に発足したナショナル・レスリング・アライアンスのこと。NWAの歴史は大きく分けると、4時代ある。

  1. 1948年7月~1993年9月: 発足~WCW脱退
  2. 1993年9月~2012年8月: WCW脱退、Pro Wrestling Organization, LLC設立~加盟団体保険制度に関する裁判に敗訴
  3. 2012年8月~2017年9月: International Wrestling Corp, LLC設立~Lightning One, Inc.(ビリー・コーガン)への売却
  4. 2017年9月~現在

NWAが各地に加盟団体を持つプロレス界の国際的主要組織だったのは、事実上1950年代前半から1980年代中期までの間。その後、米国およびカナダにおける地域制の崩壊により衰退し、そして1993年の当時の主要加盟団体WCWによる脱退がNWAの終焉だという意見も多いが、1994年8月、フィラデルフィアのECWの会場で行われたNWA世界ヘビー級王座決定トーナメントに優勝したシェーン・ダグラスが、試合後にあのNWAのベルトを投げ捨て、自らECW世界ヘビー級王者を名乗ったことが、NWAに止めを刺したという声も少なくない。

だが、その後もダン・スバーンが世界王者として来日したり、小川直也や橋本真也といった日本人が王座に君臨したり、記憶に新しいところでは、ブルース・サープ社長率いるNWAの面々が新日本プロレスに参戦していたこともある。

要するに、団体としての体制は何度も変わっているが、ブランドとしてのNWAは、1948年から絶えることなく続いている。

そんな『弱小化』『インディ化』したといわれるNWA。何故自分は追い続けるのか。

答えは簡単だ。

かつて世界最大だったNWAは、規模や形こそ変えながらも、その歴史は続いている。そして、世界の主要王座 (…だけじゃなく結構マイナーなものまで) の変遷について長年研究し続けている自分としては、その歴史が完全に幕を閉じるまで、NWAを追うことを止めるわけにはいかない。

そして、そのNWAが今になって、大変興味深い展開を見せてくれている。いや、それどころか、WWEインパクト・レスリング(元TNA)ROHといった三大団体以外では、もしかしたら今アメリカで最も注目されている団体なのかもしれない。

今後もこのブログで、これまでのNWAと、そしてサープから元TNA社長ウィリアム・パトリック・コーガン (スマッシング・パンプキンズのビリー・コーガン)に売却されてからの現在のNWAのことも含め、時々書いていきたいと思う。

専用ブログ

個人ブログとは別に、プロレス専用ブログを開設した。「え? 今までやってなかったの?」とか言われそうだが、実はこれまで自分がウェブでやってきたプロレス関連は英語が中心。

どうせなんで、これまで書いてきたプロレスネタをこっちにもコピーした。

観戦記などは、引き続き個人ブログにも書くと思うが、専用のを作っておいた方が、超オタクっぽい話題もファンじゃない連中からの突っ込みなしで遠慮なく書けるし。(笑)

puroresu.com の下に置いたが、おそらく内容は王座変遷史を中心とした、日本に限らず、色んな国のプロレス史が中心になると思う。いや、むしろ、現在の日本のネタは少ないかも…。

2017年12月のプロレス観戦

こんな題名つけると、そんなにいつも観に行ってるのかと思われるかも知らんが、実は最近少ない。ただ、今月に入って2回行ったし、他に題名を思いつかなかったもんで。

9日(土)には、クイーンズでプロレスの興行が2つあった。いや、他にもあったかもしれないが、ニューヨーク周辺のプロレス興行の一覧を載せてるウェブサイトもやっている自分が知ってるのはその2つだけで、両方とも面白そうだった。

自分は夕方早めに始まるWUW (World of Unpredictable Wrestling)の方に行った。La Boomというクラブというかライブハウスでの試合。

WWF(現WWE)の前座で活躍していたジョニー・ロッズという選手が、数多くの名ボクサーを生み出したグリーソンズ・ジムでプロレスを教えていて、元々はWUWも彼の生徒達を中心とした団体だったが、ここんとこメキシコから選手を連れてくることが増え、ルチャリブレ色の強い興行が続いている。

もう片方は、EVOLVEという、元々典型的なインディ系の団体で人気が出たが、最近はWWEと提携してるせいか、前ほど過激な試合をしなくなったと言われる団体。去年21年ぶりにテキサスに行った時、プロレスを観に行った際に出てて結構気に入ったキース・リーという選手が活躍中。

多少悩んだが、マニア気取りの観衆がウザいかもしれないと思われるEVOLVEよりも、メキシコ人が家族連れで集まり、オタクっぽい失礼なヤジも少なく、素直にリング上で起こっていることを楽しむんじゃないかと予想されるWUWにした。

実際、会場の雰囲気は、自分がよく観に行くような試合とは違い、みんなで楽しむという感じだった。

前半は、ロッズの生徒らによる試合。「まぁ、こんなもんだろう。」という試合を、一緒にいた友人と、時々失笑しながら観た。

後半になると、プロモーター自らリングアナウンサーを務めてたロッズ本人が、マイクを持ったまま、レフリーのカウントに合わせて数えたり、悪役レスラーにブーイングまでする始末。さすがにあれは余計。まるでどっかの田舎の商店街のイベントで、自ら司会をかって出てマイクを持って余計なことを喋ってるオヤジみたいだった。正直、「これさえ無ければなぁ…」といった感じだった。

メインは、90年代に新日本プロレスで活躍し、先日メキシコでの試合に負けて覆面を脱ぐ羽目になったドクトル・ワグナー・ジュニアと、L・A・パーク (元祖ラ・パルカ)のシングル戦。パルカなんて、滅多にこの周辺で観ることはできないし、当日も途中まで本当にちゃんと来るかどうかも判らなかった。

試合前に2人ともマイクを握って喋るが、スペイン語なんで殆ど理解できず。

おそらくパルカは、「お前、こないだ試合で負けて覆面脱いだのに、なんでまた覆面被って出てきてるんだ。」みたいなことを言ってたんだろうと思う。結局予想通り、試合前に自ら覆面を脱いだワグナー。2人とも50過ぎてるが、結構盛り上げて、いい味出してたと思う。

2017-12-09 WUW - L.A. Park vs Dr. Wagner Jr.

また、メキシコのプロレス団体AAAの現女子チャンピオン、レディ・シャニの試合を初めてまともに観たが、評判どおりなかなかいいと思った。

そして夕べは、うちの近所の会場にWWE Smackdown Liveの大会があるってんで、友人夫婦との3人で行ってきた。歩けない距離じゃないけど、その2人が車なんでついでに乗せてってもらった。

WWEは、去年の11月に、二軍的な役割を持つNXTの試合を観に行ったが、メインの興行としては7、8年ぶり。この会場はコンサートなどで何度も来てるがプロレスは11年ぶり

当然、それ以来何度もこの会場にWWEは来てるわけだが、なんとなくそこまで行きたいとは思わなかった。今回は中邑真輔が出るというんで、彼の試合は何度も生で観てるが、せっかく近所なんで行くことにした。

とはいえ、その真輔はなんと二試合目。普段はテレビ中継の最後の方に出る、所謂メインイベンターなんで、正直、この前座扱いには驚いた。ただ、相手が抗争中のサミ・ゼインだったので、休憩後の後半にでも、それぞれのタッグパートナーを含めての絡みがあるんではないかと思い、ほんの少しだけ期待していた。結局なかったけど。

自分は殆どWWEを生で観ることがないんで、多くても数百人しか集まらないインディ系の興行ばかりに慣れてるせいか、照明や音楽、モニターに映し出される動画など、全ての面で突っ込みどころが少なく、当然のことながら改めて世界最大のプロレス団体の凄さを感じた。っつうか、比べちゃダメか。

テレビ中継じゃなかったんで、どうせタイトルマッチも王座移動がないのは予想がついてたが、マイクで長ったらしく喋ったりの余計な芝居などが無く、試合だけを楽しめたし、感動するような試合こそ無かったが、とりあえずは退屈せず安心して観れた。

普段テレビに出る選手達がいつもやってるような試合を会場で観てるだけ、と言えばそれまでだが、やはり生だと気持ちの面で違う。特に、両方とも大ファンってわけじゃないが、リック・フレアーの娘のシャーロットと、ジム・ナイドハートを父親に持ち、ブレットとオーエンの姉エリー・ハートを母親に持つナタリアの試合を初めて生で観るのは、やはり昭和プロレスファンとしては感慨深いものがあった。

真輔については、最近負けが続いたり今回のように前座だったり、少しずつ扱いが悪くなってるようだが、あえてしばらくそうしておいて、1月の『Royal Rumble』優勝で驚かせ、毎年春に行われる世界最大のプロレスイベント『WrestleMania』でのWWE世界王座挑戦権を勝ち取り、現王者のA・J・スタイルズと一騎打ち、という会社の意向かもしれない…というのが一部のファンの予想。

自分も多少期待はしているが、もし本当にそうなっても、さすがに昨年1月に新日本の東京ドーム大会で2人が見せたレベルの試合を望もうとは思わない。

とりあえず初めて日本人選手が本格的にWWEのメインイベンターになっているという事実を素直に喜ぶ程度でいいのかなと思う。

Jesus loves y’all.

思い出

1984年2月のある日、自分はいつも以上に楽しみにしながら、テレビで全日本プロレス中継が始まるのを待っていた。見たかった選手の3年ぶりで3回目の来日だったからだ。

だが、放送のオープニングで、いきなり彼の遺影がアップで映し出された。シリーズの初日、ホテルで死体で見つかったらしい。

当時は、近所の駅の売店には東京スポーツ新聞はもちろん、大阪スポーツも福岡スポーツも売ってなく、テレビとプロレス専門誌でしか情報入手ができなかったので、亡くなったということを全く知らなかった。とはいえ、自分はまだ中学一年、エロネタの多いスポーツ新聞なんて買ってたら、どちらにしても親に叱られてたはずだが。

驚きのあまり、しばらく声が出なかった。翌週の放送だったかもしらんが、あのブルーザー・ブロディが涙を流しているのを見て、更にショックだった。

それから5年後、自分はテネシーの高校を卒業すると、早速、大学の夏の授業を取るためにテキサスに移った。寮が開くまで泊めてくれてた同じ大学の卒業生の友人にバーに連れて行かれ、彼の友達を何人も紹介してもらった。

入寮してからは、週末は大抵キャンパスの脇にあるピザ屋でその連中と飲んでいた。その中の一人は、スティーブという、色んな意味で変わった奴だった。

ある日、うちらの仲間にある女性が加わった。どうやらスティーブに彼女ができたらしい。

テキサスの夏の暑い夜。みんなピザ屋の中と外を、飲み物を持ったまま出たり入ったりしていた。

歩道に座ってビールを飲んでいる自分の横に、彼女が座ってきた。

「あんた、どこから来たの?」

「日本。」

「あたしの旦那、日本に行ったことあるよ。」

「ふ~ん。(んじゃスティーブはなんやねん…とはあえて突っ込まずに) 仕事か何か?」

「うん。プロレスラーだったの。」

「プロレス好きだから、知ってるかも。誰?」

「デビッド・フォン・エリック。」

絶句とはあの時のことを言うのだろう。次第に自分の目には涙が浮かんできていた。

何かを察したのか、彼女が慰めるかのような口調で言ってきた。

「本当にプロレス好きなんだね。馬場正平、知ってるでしょ? 彼のとこで試合してたの。」

「そんなん知っとるわい!」と言わんばかりに、彼女に、半泣きで、デビッドを見るのが待ち遠しくてテレビを見てた日のショックについて語った。当時の自分は渡米3年目で、英語もまだまだ。でも彼女はちゃんと聞いてくれた。

デビッドが亡くなってから5年しか経ってなかったし、その時はスティーブと付き合ってたから、それ以降はあえてプロレスの話題は出さなかった。

その後、二人は別れ、スティーブにも新しい彼女ができた。それからずっと彼女とは音信普通だった。

デビッドは、父親のフリッツ、兄のケビン、弟のケリー、マイク、クリスが皆プロレスラーだった。弟達は全員自殺、父親も亡くなったが、ケビンはしばらく現役を続けていた。

10年以上前だったか、ケビンのウェブサイトを見つけた時、思わず彼女についてメールで問い合わせてしまった。「実は我々も知らない。」という返事だった。

5年前、facebookのあるプロレス関係のページに、ちょっとした伝記っぽい文章と共にデビッドの写真を投稿していた人がいた。

その投稿に対するコメントの中に、彼女と同じファーストネームの人から、「デビッドのこと、覚えててくれてる人達がいて、嬉しい。」というのがあった。

20年以上音信不通だった友人と、再び連絡をとれたわけだが、彼女曰く、「普段はプロレス関係のとこにはコメント残さないけど、あれはいい文章だったから。」とのこと。自分もたまたまその投稿を見つけたわけで、もしも見てなかったら、彼女と再び連絡をとることはできなかったかもしれない。しばらくすると、今度はスティーブも亡くなったというニュースが入ってきた。

そして今日、彼女から小包が届いた。中に入ってたのは、エルトン・ジョンのベスト盤のカセットテープ。それもパッケージが日本語。

エルトン・ジョン

彼女からの手紙も入ってた。

「こないだ掃除してたら、デビッドのテープコレクションが見つかったの。このテープを見て、日本語だし、ピアノだし、すぐあんたのこと思い出してさ。どちらかというとビリー・ジョエルのファンだってのは知ってるし、今更テーププレーヤーも持ってないだろうけど、記念に持っておくのもいいでしょ。」

確かにエルトン・ジョンは大ファンってわけじゃないけど、こういう彼女の気持ちが嬉しかった。

今とは違う形で、『スポーツ』としてプロレスにのめり込んでたガキの頃や、無責任に遊びまくってた大学時代のことなど、色々思い出して、よくまぁこんな自分がここまでやってこれたなぁと、つくづく神様に感謝した。

Jesus loves y’all.

裏方

先週の月曜、宣教師として日本に行く準備をしているという韓国系アメリカ人の女の子と出会い、色々話をした。

ニコニコして明るい感じの子で、大学を卒業して、まだ2、3年しか経ってないようだ。うちの姪達より歳下か。日本語を勉強して宣教師になるなら、再来年あたりには、もし自分がその子を人前で紹介することがあれば、「~先生」とか言うんだろうと思うと、不思議な気もした。

世界的に大学のキャンパスを中心に活動している有名な宣教団体で働いているんで、クリスチャンじゃない学生達に直接話をしていくのが彼女の活動の中心になるんだろうと思う。

会話の中で、自分はむしろどちらかというと反対で、直接口頭で誰かに福音を伝えたり教会に誘ったりするのは、実は苦手だということを明かした。

確かに、人前で喋たったり演奏したり、礼拝やイベントの司会もしたりで、正直目立つ活動も結構ある。でもそういうのは全て、会衆の前でやってるわけで、色んな人達を個人的に相手にしているわけではない。

自分みたいに、見た目が胡散臭く、不愛想な雰囲気の奴は、誰か知らない人に個人的に『神の愛』とかについて話すよりは、教会や宣教団体の事務仕事、またはイベントやウェブサイトの手伝いなど、裏方の仕事の方が向いてるような気がするということを語った。

丁度3ヶ月前、プロレスラーのスタン・ハンセンについて書いたが、それもまた、自分自身の言葉ではなく、せっかく自分のプロレスのウェブサイトの人気が出てきてたので、福音を伝えるのに利用しない手はないと思って、プロレスラー達の信仰の証を載せ始めようとしたのがきっかけだった。

そのページに載せてる殆どは、プロレスファンでないと解らない選手ばかりだが、さすがにハンセンくらいになると、プロレスファンでなくても名前くらいは聞いたことがあるという人が多く、影響力もある。

かれこれ15年近く前になるが、テキサスの大学にいるというアメリカ人の学生からメールが来て、「こないだ日本人のプロレスファンの友人がクリスチャンになった。色んなやり方でイエスのことを伝えてきたけど、その中でもハンセンの証を見せたのが大きかったような気がする。」とのことだった。自分がやってきたことが誰かの役に立ったと喜んで神様に感謝した瞬間だった。

6年前には、あるミュージシャンからも、同じくハンセンの証を読んだということで連絡をもらった。

そして昨日、見知らぬ人からfacebookに友達申請が来た。10年前にハンセンの証を読んで感動したが、最近ご本人もハンセンと似たような状況になったらしく、改めて励まされたとのこと。実は自分のブログも読んでくれてるとか。

人前で音楽を演奏していると、「誰か一人から感想を言われたら、その人だけではなく、何人も同じことを感じている人がいると思え。」と、何度か言われたことがある。何年もかけてではあるが、ハンセンの決して長文ではない証だけで数人連絡をくれたってことは、もっと多くの人達が、それによって励まされてると理解していいんだろうと思う。

プロレスのサイトとは別に、うちの教会のウェブサイトを始めたのも、そこに信徒達の証を載せようと呼びかけたのも自分だが、それもまたこれまで何人もの人達から励まされたという連絡をもらった。

先週の日曜は、近所の他教会で日本からの特別ゲストが来て話すっていうんで、うちの教会も合流したが、その先生が言ってたことの中に、「祈ってても神様から方向性が示されないこともあるが、そういう時は、無視されているのではなく、自分が今やってることを地道に続けろということ。」というのがあった。

確かに最近は、教会のことも、それ以外の自分が関わってる伝道活動にしても、祈ってても何も聞こえない。ならば、裏方の仕事だろう何だろうと、実際に何人もの人達にいい影響が与えられてるらしく、何等かの形で色んなとこで撒いた種が芽生えているようなんで、これまでどおりコツコツやってくってことでいいってことか。

色々と励まされた一週間だった。

Jesus loves y’all!

『不沈艦』

もしかしたら、今日ほど、たった5分10分程度のために、時間とお金を費やしたことはないかもしれない。

とはいえ、単に夢中になりまくってたわけでもなく、正直あまり期待もしてなかったが、それでも実行しなければいけないような使命感があった。

15年前、このサイトに載せるために、ある人にクリスチャンとしての信仰の証を書いてもらいたいと思い、連絡先を知ってそうな色んな人達に依頼してたら、ある日突然本人を名乗る人がメールで送ってきてくれた。今まで会うことがなかったテキサス中部在住のその本人が、今夜ニュージャージーに来るという情報が入ってきたが、その場所が結構我が家から行くのに不便そうだったので、今回もまた会う機会がないと諦めてた。

だがなんと、昼間には、うちからもうちょっと行き易い場所にも来るとのこと。

現在、自分は過去3~4年の間に教会や(直接嫁さんやせがれが原因ではないが)家庭のことで溜まりまくったストレスにより、多少体調を崩していて、車ならば30分くらいで行けるとこだが、ちょっと自信がなかったんで、わざわざ2時間近くかけて電車で行った。

ニューヨーク市のほぼ東端にあるフラッシングという町は、台湾人や韓国人が多く、大部分が中華街または韓国人街っぽかったりして色んな店があるが、今日行った場所は結構外れの方で、特にこれといって何もない地域だった。

そこに小さなプロレスショップがあって、時々新旧の大物レスラーが来てサイン会をするんだが、今日は「有名人に会いに行く」というミーハー気分よりも、どちらかというと、「これを逃すと挨拶する機会がなかなか無いかも。」という思いで行ってきた。

プロレスのTシャツは何枚か持ってるが、今日はやはり故ブルーザー・ブロディのを着ていくしかないと思った。

過去20年近く使ってきた日本語の聖書も持って行くことにした。

そして、15年前に送られてきた信仰の証の英語の原文も印刷してバックパックの中に入れた。

初めて行く場所ということで、念のため早めに行ったもんで、とりあえず事前に友人が薦めてくれてた二件隣のイタリアン・デリで軽く昼メシ。喰い終わった後、店の前で時間を潰してたら、本人が車から降りてきた。

ブロディのシャツを見ると、ニヤっとして、「元気にやってるか?」と声をかけてきた。でも、引退して時間も経ってるし歳もとって縮んだのか、自分より大きいという感じはそれ程しなかった。

少しずつ列ができてきたが、自分より先に来てた二人がメシか何かでどっか行ってたので、自分が最初に入らせてもらえた。

まず、「これ、昔送っていただいたんですが、覚えてますか? 本当にご本人から来たものか、長年気になってるんです。」と言いながら印刷した証を渡した。最初の数秒間、「なんじゃこれ」とか言わんばかりの表情で読んでたが、途中で、「Wow… Oh my goodness… これ、確かに俺が書いたやつだよ。結構前の話だよな。」という返事が返ってきた。なので、プロレスサイト宣伝用の名刺も渡しといた。印刷した証は、本人が持って帰りたいとのことだった。

そして、持って来た聖書を開き、裏表紙にサインするようにお願いした。
聖書

「多分、聖書にサインしたのなんて初めてかも。」

「え? 英語の聖書にも?」

「ないなぁ…。」

「んじゃ、それもまた光栄ですね。大体、日本国外で日本人のクリスチャンってのもなかなか会えないでしょ?」

「確かにな。俺たち夫婦は、大和の教会に行ってたけど。」

「確か、カルバリーチャペルでしたよね?」

「そうそう。素晴らしい牧師だった。」

「いやぁ、本当、やっと会えて嬉しかったっす。」

「だな。驚いたよ。もしかしたら、今後も俺たちは連絡取り合うべきなのかもよ。」

社交辞令かもしらんが、日本で最も活躍した外人選手の中の一人であるスタン・ハンセンが自分にそう言ってくれたのは嬉しかった。

もちろん、業界ではあそこまでのレジェンドが、自分なんか覚えてて連絡してくるとも思えないけど、でも、彼のクリスチャンとしての信仰が、日本語を話す人達に、イエス・キリストを通して現わされた神の愛を伝えていく更なる機会につながってほしいという希望が大きくなった。

Jesus loves y’all!